要旨

ポグロムの記憶の移民―1920年代のウクライナとパレスチナ

鶴見太郎(東京大学)


 1917年の10月革命ののち、旧ロシア帝国の地をめぐって、赤軍と白軍、さらにはウクライナ・ナショナリストを交えて内戦が発生した。その際に、それまでの比ではない規模でポグロムが巻き起こった。この記憶はパレスチナに移民していくことになるシオニストにどのような「フレーム」を提供することになったのか。1920年と21年には、シオニストはパレスチナでもアラブ人による暴動を経験した。もっともこれらの事件は、パレスチナ人の歴史では「反乱」と呼ばれるように、次々と流入するシオニストやそれに対して十分な施策を取らないように見えたイギリス帝国に対する先住民の抵抗という意味合いは強く、ポグロムと同一視できるものではない。だが、シオニストはこれらの事件を「ポグロム」と表象した。それに加えて浮かび上がるのは、次の点である。すなわち、シオニストは旧ロシア帝国の地で、ポグロム加害者をコサックをはじめとした「野蛮な」「東の」人々の仕業と捉える一方で、それを制するべき、本来は西欧的な形を目指すはずであるところのロシア当局も十分にそれを抑えなかったものとしてポグロムを記憶した。パレスチナでも、「野蛮な」「東の」人々の暴力と、それを押さえない「西であるはずの」イギリス当局という構図が描かれた。つまり、自らを当該社会のなかでの「西」に位置づけつつ、秩序の維持を西欧的な国家権力に求めるという姿勢は継続していたのである。シオニストは、ポグロムでの被害の記憶を積極的に提示し続けることはしなかったが、ポグロムの経験をもとにしたフレーム自体は参照され続けたということでもある。

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