黒田晴之(松山大学)
これまで著者の阪井葉子氏は主として、ドイツ民謡を取り巻く言説を研究してきた。民謡を初めて思考の対象にしたヘルダーから、現代にまで至る実に射程の広い研究だった。ドイツでは民謡がナチスによって政治利用されたため、60年代に大きなブームとなったアメリカとは違って、フォーク・シーンでそのまま歌うことはできなかった。こうしたなかで著者が注目したのは、東独のシュタイニツによる民謡研究で、シュタイニツはそれまでの美化された民謡ではなく、労働や生活の苦しさを題材にした歌を精力的に発掘した。こうした流れに戦後ドイツのフォークをまず位置付けたうえで、阪井氏はドイツにおけるイディッシュ歌謡復興という現象を、ドイツ人の過去との向き合い方にも重ね合わせていく。さらにはそのさいドイツ人とユダヤ人が協力関係にあったことも解明していく。このような研究方針のため器楽であるクレズマーにたいし、阪井氏の評価はかならずしも高いとは言えない。ただし戦前・戦中のユダヤの歌をクレズマーとして実践するDaniel Kahnに、生前の阪井氏がとくに着目していたということからは、本書でのクレズマー評価が変わる可能性もあったことが窺える。『戦後ドイツに響くユダヤの歌』の言わば「書かれなかった」章を本報告は示唆した。