岩谷彩子(京都大学)
1990年代以降、市場開放後のルーマニアでマネレという音楽ジャンルが出現し、ロマ御殿と呼ばれる独特な家屋が建築されるようになった。本報告では、建築と音楽(ジャンル)という異なる媒体の同時的な出現を、他者のまなざしを取り入れながら自らのコミュニティの境界を生成していく、ロマの記憶の実践としてとらえることを目的とした。理論的視座としては、まず出来事への身構えをつくりだす媒体として音楽をとらえる研究が挙げられる。表象として再構成されないことを本質とする出来事の表象―ロマの場合、起源や迫害の経験―を再構成するうえで、身体的身構えを形成する媒体として音楽の可能性が考えられる。さらに、ロマの音楽、および建築は「ヴァーチャル」なものを「アクチュアル」にし、「内部」と「外部」を結びつける表面(surface)として機能していると考えられ、他者との関係のなかで感覚イメージや情動を喚起する媒体といえる。本報告では、マネレという音楽を生み出すのは主にロマであるものの、歌われているのはロマのエスニシティではなく、外部とつながる可能性を秘めた表層性であることを指摘した。さらに、マネレ歌手が招かれたプライベイト・パーティーが、ロマ共同体内部の軋轢を顕在化させた出来事にも焦点を当て、共同体の内と外との境界を攪乱する音楽としてマネレを論じた。マネレが歌うのはコミュニティの過去や表象ではなく、移り変わる現在を生きる人々の身構えそのものといえる。