左地亮子(東洋大学)
本会では、報告者がこれまで調査してきたフランスのジプシー、マヌーシュの想起と沈黙の実践について、そしてユダヤ人の歴史実践との対話可能性について、保苅実著『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(2018年、岩波現代文庫)、および箭内匡著『イメージの人類学』(2018年、せりか書房)の視座を取り上げながら検討した。
保苅は、アボリジニの歴史実践について考察するなかで、歴史の客体や受け手とされてきた人々の過去をめぐる態度―西洋近代の歴史実践とは異なる態度を「歴史として深く聴くこと」の重要性、そして異なる歴史実践間のコミュニケーションのなかで生成変化する新たな歴史学を提唱する。その「クロス・カルチュラライジング・ヒストリー」という視座は、知の権力構造を温存する「取り繕いの多文化主義」に注意を払いながら、「わたしたちの」手持ちの西洋流歴史概念を「わたしたちのものではない」歴史実践と交錯させ、攪乱し、そのあいだの接続可能性や共奏可能性について粘り強く対話することを目指す。過去に関する語りや記述のみならず、身体や事物を通して人々が過去との対話するあらゆる様態―「歴史すること(doing history)」に着目して西洋近代の歴史実践の普遍性を鋭く問いなおす点で、それは本共同研究で議論していく「書物の民」ユダヤ人と「文字なき民」ジプシーの記憶・歴史実践を、安易に対立させることなく、ともに議論するための視座となりうる。
一方で、箭内が論じる「イメージ経験」は、保苅のいう「歴史すること」の経験を発展的に理解するための重要な手がかりを与えてくれる。箭内によると、イメージ経験とは、頭の中ではなく、人間が身体を媒介に様々な事物と関わり合いながら生きているとき、現れ出て、働くものを指す。身体・事物・環境という媒体間のやりとりの中で生じるこのイメージ化のプロセスを「歴史すること」の経験にあてはめて検討することにより、西洋近代的な歴史実践、ユダヤの歴史実践、ジプシー/マヌーシュの歴史実践について、同時に思考することができる。具体的には、過去に生じたある出来事が、想起や過去の探索という「脱+再イメージ化」の過程を経て、多様な意味をもつ諸記憶となっていくプロセスを検討することにより、「社会身体」の在り方(環境・身体・事物という媒体/媒体間の関係)の異なりが、「イメージの現れ」としての「歴史すること」「紡がれる歴史」の差異と共通性をどのように導くのか、議論することができるだろう。さらに、以上のイメージ化に関わる視座に加え、箭内による「近代性と身体的イメージとの間での経験的二重性」、あるいは「総かり立て体制」のなかで、「かり立て」の連鎖からはみ出す「人間の生の直接性」への指摘は、ユダヤ人であれジプシー/ロマであれ、現代世界を生きるあらゆる人々の「歴史」「記憶」の経験、とりわけ表象に先立つ過去との対話の在り方をとらえるうえで看過できない論点となる。